寄稿 岩 槻 郷 土 資 料 館 だ よ り 72 遷喬館の創設者児玉南柯

 遷喬館の創設者 児玉南柯は、岩槻藩の家臣であると共に儒学者でもありました。延享三年(一七四六)甲府で生まれ、一一歳の時に岩槻藩士児玉親繁の養子となりました。名は琮、字は玉卿、通称宗吾、「南柯」は儒者としての名前です。
 一六歳で藩主大岡忠喜の御中小姓となり、向井一郎太のもとで儒学を学び、明和八年(一七七〇)には昌平黌に入校しました。一八歳で江戸藩邸詰めになり、若殿忠要の素読の相手を勤め、郡奉行、御側用人などの藩の要職を歴任しました。岩槻藩領であった安房千倉(現在の千葉県房総市)に清国の船「元順号」が漂着したときには、その処理にあたり、後にこの事件を回想した『漂客紀事』という本を刊行しています。
 四三歳の時、部下の不正の責任をとり、職を辞職しましたが、その後は藩主の侍読などを勤め、自身の研究や藩士の教育へと力を注いでいきました。その中で寛政一一年(一七九九)に私塾として遷喬館を開設しました。遷喬館はその後、藩校となり、多くの藩士の子弟たちの教育が行われていきました。南柯は文政一三年(一八三〇)、病で亡くなり浄安寺に葬られました。
「児玉南柯自画像」は南柯筆の遷喬館扁額や短冊などとともに、昭和五三年三月、「児玉南柯遺品」として、旧岩槻市指定文化財となり、現在さいたま市指定文化財(歴史資料)として引き継がれています。自画像は、縦約二六・五㎝、横約二一・〇㎝の大きさで、和紙に琴の前に座る人物(南柯)が描かれています。
その人物の上には
「か支(き)なら須(す)
琴越(を)ことと裳(も)
おもはねと
汪(わ)がひが耳にき具(く)楚(そ)たのしき」
と歌がみられます。
これは、児玉南柯が八二才の時の自画像といわれています。南柯が文政一三年に亡くなられた時は、八五才であったとことから、亡くなる数年前の自画像ということになります。
なお、この自画像は、常時公開はしていませんが、複製を遷喬館及び、郷土資料館で展示しています。

 

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

インフォメーション

  1. 2024-7-13

    睡眠不足がもたらす健康リスクとは?⑥

    睡眠改善のためのヒントとアドバイス  ストレス管理と睡眠の関係 ・ストレスがたまると、睡眠不足の…
  2. 2024-7-13

    支援団体に  自動車税一千万が課税

    [caption id="attachment_22457" align="alignleft" w…
  3. 2024-7-13

    伝えて槻丸 №12 第84回 たかみや えみこ

    【中古】 秘伝4コママンガの描き方 今日からキミもプロ作家!! / ドラクエ…

『らうんじ』からの募集・告知

  1. 唐朝(とうちょう) 唐の朝廷。 唐の時代 名君(めいくん) 国家を 統制することに すぐ…
  2. [caption id="attachment_22317" align="alignright" …
  3. [caption id="attachment_22308" align="alignright" …
  4. 地域の疑問やあなたのアイデアを聞かせて下さい。 独自の文化や観光の魅力をたくさん持っている岩槻です…
  5. だれでもできる簡単なおもちゃづくり(材料費等無料) 【日時】①7月20日(土)②7月27日(土)③…
無料イラスト素材【イラストAC】

岩槻について

  1. 2024年6月末、会社の行事で沖縄県に訪問した際、名前とメッセージを即興で書いてくれる書道家のAさん…
  2. ――その後現場から離れて経営側から関わるようになったと思うのですがショーの世界でやっていてよかったで…
  3.  学童で働いていた私が子供との関わりを綴る日々の記録です。 学童は第二の家庭と言われますが、何十人…
  4. 「夢」 それは希望 努力の彼方 暗い場所から見た光 逆境に対する意志 新しい出会い &n…

アーカイブ

過去記事

イベント終了などで移動になった記事はこちらから

移動済み情報記事一覧へ

 

ページ上部へ戻る