久保宿町は、古くは“窪宿“とも書かれ、室町時代には市(いち)が立っていました。
市宿町は、字の通り戦国時代に、岩槻城主太田氏から市を開く許可がおり、この地で市が立ち、地名にもなって繁栄しました。
しかし、江戸時代の初期に争論が発生したので、慶長六年(一六〇一年)岩槻城主高力河内守は、「市の掟」を市宿町に発し、市の開催場所を市宿町に限定し、市神様の前で太物、ゆたんなどの岩槻産物を中心に売り買いを許しました。
市は、毎月一と六の付く日に市宿町の上宿や下宿において開かれていました。
市神様は、市宿町の中央を通る日光御成道の中央に位置していました。図を参照してください。
その頃の道幅は、八間(十四・四メートル)あり、市神様の前に背中合わせで二列の露店が、下宿に向かって立ち並び売買をしていました。
特に名産品の縞木綿は、“岩槻縞木綿”と称され、京都のお公家さんが日光社参の折お土産として購入するなど有名でした。
また、岩槻縞木綿は、“武州木綿”とも称され、関東三大産地の一つでした。
久保宿町や渋江町、横町などは、繁栄を願って、ひそかに木綿などの取引を商人の自宅の庭先で行っていました。
そこで、市宿町では、追上げ人をもって久保宿町などで売買する人々を市宿町に追い立てました。
市宿町では、慶長の掟を守るように、久保宿町などにしばしば抗議をしていましたが、元禄十五年(一七〇二年)七月綿買の出入りに発展しました。
久保宿町は、宝永元年(一七〇四年)十月二十九日岩槻会所(岩槻城主が領内の町や村を取り締まったり、お触れなどを出したりする役所)へ、市立ての願いを出しますが、市宿町から訴訟が出され、許可されませんでした。
その後も久保宿町など脇町(渋江町、横町など)は木綿の取引を続けました。
そのため、市宿町は、享保八年(一七二三年)四月幕府へ久保宿町の不法を訴えました。
この訴えは、古来より市立の開催権利を主張する市宿町の勝訴で終わりました。
元文二年(一七三七年)九月久保宿町は、新市取立願を再び岩槻会所に出しますが、市宿町の訴訟によって、新市取立願は却下されました。
一方市宿町は、久保宿町の商人などが自宅庭先での木綿販売をやめないので、寛延元年(一七四八年)幕府に訴訟を起します。
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