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冨士宿町は、諏訪小路の外側現在のたちばな保育園から左折し、南に延びた道路を直進し、国道十六号線を渡り、浅間神社前を通り、松永建設に至る道筋の両側にひらけた町です。
地名の由来は、この地から富士山がよく見えたから冨士宿と称するようになったという説、この土地に祭られている冨士浅間神社の冨士から名づけられたという説があります。
室町時代は、「岩付ふち宿」と呼ばれ、神社を中心に門前市(もんぜんいち)が開かれていました。
町の西側には、岩槻城を囲む総構(土塁)が南に延び、その先端部の総構の上に冨士浅間神社が祀られています。
江戸時代の様子は、絵図を見ると町の長さは五町、道幅四間で家は左側に二十六軒、右側に十九軒が道に面して建ち並んでいます。
井戸は、家の中ではなくすべて庭にあります。
江戸時代初期の日光社参は、徳川将軍が江戸城を出発し、千手・草加・越谷・大沢をへて末田の金剛院前を通り、冨士宿を通り城内に入っていました。
また、岩槻城主が江戸から帰るときや江戸に行くときは、必ず冨士宿町を通っていました。
享保十五年(一七三〇)町の耕作地は知楽下(田圃)、諏訪下(田圃)、東原地(畑地)でした。
家数は五十軒、人数二百五十四人で内大工四人、石屋一人、同心二人がおりました。
馬数は七疋、船一艘が報告されています。
町にはご城内や宿内の出火の火消をする火の番所があり、火消道具として水籠一つ、小水籠五つ、はしご壱挺、鎌十具、綱一筋、かけや一挺が常備されていました。
町内の寺院は、鎌倉円覚寺旧末寺知楽院があります。
知楽院は、開基は岩槻城主太田資頼、開山は奇文和尚です。
かっては太田資頼画像や中世文書がありました。
また、岩槻藩校創始者の児玉南柯は、若いころから知楽院の住僧より指導を受けていました。
冨士浅間神社は、岩槻城主阿部家など歴代城主から保護を受けています。
七月一日は浅間神社の祭礼で、この一年間に生まれた子供のいる家では初山といって、お参りをして赤ちゃんの額か産着に朱印を押してもらい、帰りに団扇を買って親戚等に配る風習があります。
また、昔の書類に「元浅間敷地跡有」と記されていますが、これは現在ある元浅間の冨士浅間社をいいます。
言い伝えでは、「その昔元浅間から現在地に移転してきたと云います。
そのために移転前の浅間神社の跡地を、元浅間神社と称している。」といいます。
冨士宿町の町名は江戸時代から明治六年の合併で岩槻町となるまで使用されていました。
【文責・飯山実】
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